昭和52年05月01日 月次祭



 今日はお朔日というのと、日曜であると言う事が重なってから、朝からこのお広前も大変賑わいました。もう本当に終日私しが4時半ここをを下がるまで沢山なお参りでした。沢山な方達のお取次ぎをさせて頂くなかに、本当にま難儀な事だなとそれこそもらい泣きする様なお届けがあるかと思うと、医者にもう絶対駄目だと見離されておった人がおかげ頂いて、お礼に出来ると言った様なお届けをさせて頂きながら、今日一日を終わらした頂いたんですけれども。
 ちょうど午後のもうちょと4時ちょっと前だったでしょうか、久留米市長ま近見さん達が夫婦でお礼参拝して来ました。この頃はしみじみとお届けがあるんです。それが自分の家の事であり、自分の息子達の事であると言う、この頃は親身のお願いに夫婦で見える訳です。お話を聞くとどこんでもやはり難儀というものはあるなと思うのですけれども、それが一つ一つおかげを頂いて、家庭的な上にもこうこうおかげを頂き、福岡におります息子達の上にも大変心配になる問題も、こう重なっておりましたけれども。
 一つ一つ何ともなしにおかげを頂いて、まぁやれやれまぁ安心と思わせて頂いとりましたが、最近特に私が躰が弱ってとにかく体がきついんですとお願い、そりゃまた市長さんともなられると大変な責任もある事だから、やっぱお疲れでしょうで、いいえ今度のは疲れじゃありませんと言われる。そりゃ私共でも幾つも病気を持ってるんですけれども、もう実は私も今日はもう実はくたくたなんですよやっぱ朝からこうこうで。
 もう先月などはまよう振り返ってみて一月間を様々な行事が、夕べ終わりにしなさる時にやっぱり共によからなければなからないだけ、もう教会としての大きな行事があってるんです。もう朔日の月次祭に併せて勧学祭、それから青年会があぁじゃない丸少が何ち間のここで泊っての、丸少10周年の大会が開かれた。それにまた私の誕生のお祝いパーテーなんかもあったり。それから御本部参拝がある。それから10日の月次祭、青年会の信心実習会、うちは信心実習会そして春の御大祭。
 もう本当に大祭と言うても前夜祭大祭そして一日於いてもう月次祭。そしてもう23日は24日の末永先生の壮行会、もう言うならばお広前をひっくり返すような、大きな集いやらお祭やらが次から次と、もう3日に一回づつぐらいあってる訳です。ですからよぅも本当にこれだけに事がこのお広前で繰り返し出来る事だと思う位ですけれども。私はもうとにかくその日の気分というものを、さまにしとかなければ出来ない。
 例えば大祭のならもう本当にあれだけの沢山なお供えだけでも、どこにかけいしてしまうだけ大変、もう米一俵でもこの辺に散らかっとじゃけん。ここづうっけいとして夜の御祈念が、あら今日昼なんかあったちゃろかというくらいにしとかなければ、私の気分が済まん。そういう性格ですから、そのやれやれと言う様な事がない。あのう昨日16日の御大祭を頂いた翌日18日の月次祭に皆さんに話すんです。
 昨日一昨日あぁいう御大祭を仕えたのに、やっぱりこんなに沢山当たり前にお月次祭に月次祭が出来ると言う事はほんに素晴らしい事だと。合楽の御信者さんも信心が進みなさった。もう昨日おととい一回づつ参っとるけん、今日は御無礼しょうと言う人がないと言う事が、日に日にやはり生きるが信心と仰せられるところの、さらな信心をしておるからだと。けれども思うてみると思うただけでも疲れるような。
 今日私近見市長と話しさして頂いて。実は私も今日はくたくたなんですよ。と朝から。今申します様に本当に死ぬか生きるかと言った様な、もう本当にそんな難儀がまたあろうかと言う様な、かと思うと中には本当にない命を助けて頂いたとか、生まれん筈の子供が生れたとか言う様なお届けなんです。ですからその喜びと喜びもやはりその活を入れて下さるその働きでございましょうけれども。とにかく市長さん私がどんなにくたくたになっとっても、ここに座ると体がしゃんとするこれは不思議なんです。
 そしてここへ坐っておるとはぁもうていげいいい加減でもうやめて下さるよと頼みに行くと言う様な事は思わない。やはり十分にお使い回し頂きたいと言う、もうそれこそ混んで居れば混んでおるほどいわば念を入れて、お届けをさせて頂く。それはね結局ここへ坐ると言う事は、私の心が神様へいよいよ向かうと言う事だからだと思うんですよ。そんなら私があのうしらぶきっちょうで、勝手の方へ下がらして頂いてからでも、やっぱりこの神様を頂き切っておる積りですけれども。
 ここへ坐った時の気持ちと勝手に下がってからの気持ちは、違うと言うところにです、信心不可思議さがあるのです。生きた神様をここに頂いておると言う事も、大切さと言う事も分かるのです。分かると言う信心はこういうもんだとね。だから分ってるんだけども分かっただけでは、それこそいざなら身体がくたくたに疲れるときには、もうがたっといくごとなります。けれどもまたここへ坐って、神様の御用をさして頂いておると、心がしゃんとする。
 そしてここに根が生えたように座りぬかせて頂けることが出きる。一番初め近見さん達がお参りになったのはまず一番初めは選挙の時であって。自分が市長になられるための選挙の初めをお願いに、まぁいうなら運動員の人がだった。それからいろいろお願い、もうこれは大きな市の働き、いや例えばお天候の事とかいろんなお願いがあった。市政という全般にわたってお願いがなさる。ところが今日いう信心がです、このう今度は自分の家庭の事になって来た。
 深刻にやはり神様にお縋りしなければ、こりゃもう俺たち夫婦じゃもういくら息子たちでん思いにゃならないと言う事。それで自分の子供たち家族の事ですら親がどうにもできないものが、市政を預かるなんてってもうもってのほかだと言う様に、自分がいわゆる自己嫌悪にかかるくらいに考えるように難しい問題でしたけれども、それが何とはなしにおかげを頂いた。家庭の上にもおかげを頂いた。今日はそれのお礼参拝と同時に、この頃はどうも体の具合がわるいもうただの疲れではない。
 そこでですいわゆる神様に私は今日はどんな事があってもね、20辺30辺くらいは市政のいうなら合間に生神金光大神様という、あのう唱えなさらなければいけませんよっと。というてまぁお話をさせて頂いた。そこで例えば今度は子供さんの事であり、家庭の事であり自分の身体の事でありと言う様な実感を持って、久留米市姿勢の事が祈られ願われる事になったら、久留米市の市民の幸福につながる事になりましょう。神様をいわば段々信ずる力が本当の意味で出来てきた。
 もう言うならば今日は大祓い信行でも一つやってみなさい。と言おうかと思うたばってん、まぁ金光様ぐらいで負けとくという。それでもねそういう話をこう人が真剣に聞かれるようになってと言う事はやっぱり前進です。今までは私が話しと言う事よりも、やはり自分の話の方が多いかった。今日はもう本当に自分自身の身体の事です。だからきつい時にゃきつい時金光様、生神金光様と唱えさして頂きますと、丁度私の身体がくたくたであってもここで新たな御用が出来ます様に。
 信心の信心はしょうるお取次ぎを頂いとるお願いはしとる、毎日のお参りはしよる。これだけでもいかん。そこにあのう心を集中して神様に向けさせて頂く信心が必要であります。何でもない時には何でもない、言うならばそれで良いように割り切った考え方をするもんですけれども、実際身体がくたくたに疲れたりいよいよ困った難儀な事になると、本当に心を神様に向けなければ、本気でお取次ぎを願い頂かなければと言う事なんです。信心の真、いわゆる真心と言う事が、金光様の御信心では至る所に出てまいります。
 また真心さえあればおかげは受けられるとこうおっしゃるが。真心一つで人が助かったり、真心で自分んが助かったりといわれておるけれども。そんならばその真心とはどういう事であろうかと、追及しておる人達がどのくらいおるだろうか。はぁ金光様の信心な真心いっちょで助かりますとかおかげ頂きます。また取り次ぐものも真心一つあればというのですけれども。そんならその真心とは助かることの出来れるその真心とは。どう言う事であろうかと。
 本当に心を神様に向けるて、そのくたくたの疲れも癒えるほどしの向かい方とはどいう事であろうかと。私は思うてみなければいけないと思う。先日敬親会の時に頂いた御理解ですけれども、真心と言うのは真の心と書いてある。人間がこの世に生を受けてこの世に出て来たその姿が、そのいわゆる赤子の心が真心である。それがもう少しもの心がつく様になると、我情を言う様になり我欲を言う様になる。だから真心と言うのは形においては、まぁ真の心本当な心なら本当の心と言うのはどういうものかと言うと。
 本当の心はいつも楽である。何時も喜びである。いうならばいつも喜びの方へ心がころころと向きを変えさせて頂けれる心、が真心だと言う事です。教えを頂い取りますから、はぁここはこう思うが本なこといやぁこれはおかげとも思うけれども心が言う事を利かん。それは我情があり我欲があり魂が言うならけゃりごりしておるからである。自分の心のこの喜びで受けて行かん事は分っておっても、喜びで受けられないというところに信心がある。真心一つで助かると仰るが。
 そういう一切を喜びで受けて受けて受け抜いて行ける、そういう心の状態が真心だと。なるほどこれではおかげを頂くはずだと言う事が分かります。はぁ真心いっちょで助かる、真心で拝みゃよかという事がです。なら真心とはどう言う様な心を持って真心と言うかと言うと、神様から頂いたそのそのままの心が真心です。いわゆる本当な心だと言う。だから人間は神の氏子神様の分け御霊とこういうのです。その分け御霊であるその御霊に対しに言うならば我情我欲がある。
 ついてきて段々汚れに汚れて性が変わって来る様になる。有り難いちゅうことは言うならばお話を頂くと、ここはお礼を言わなければならんと言う事が分かっておっても、お礼が言えない。これではおかげにならない。だからそういう私の心からです全ての事がお礼が言えれる、全ての事が有り難い方へ有り難う方へと受けて行けれる様な。心の状態を目指さしてもらう願わしてもらう、それが信心だと言う事になる訳ですね。それが真心一つで助かる。
 そんなら真心をとばそうやはりそこに真心追及する、いわば追及心がなからなければならない。どんくらい追及心と言うが。である方がこの大きな障子紙ごたるとを持って来てから、これになら私に何かいっちょ書けと言う訳。これじゃたらこのこまかけんじゃんから、ここの先生の光岡先生のところに墨摺っといてもろうてから、書かしてもらおうかいま丁度5時ごろだったでしょう。そしてやらして頂いてさぁどげん書くかと思うたら、光岡先生が来て天地日月の心になること肝要なりと書いてあった。
 ならいっちょこれを書こうかと言うてから、天地日月の心肝要なりと書こうと思うたらあんまり大き過ぎてから入らん。それをと思うたら天地日月の、のを書かずにね。天地日月心になることだいじと言うところまでしか書けなかった。いうなら書きそこのうた。と思うておったけれども実際はね。天地日月の心と言うたら書くに足らんようだけれども、天地日月心というたらそれでよいのです。天地日月心である。私それを書かして頂いて天地日月の心と言うよりも、天地日月心と言うた方が本当の事のように思う。
 しかも寛容であるとなんとか書かんでも、これが第一だと書いてある。天地日月心。信心は天地日月の心になること肝要だと書こうと思うたら。信心は天地日月心が第一だと、そこまでしか書いてない。けれどもそれだけでけっこう通用するだけじゃなくて、かえってこう意味が深く頂けるような感じがする。天地日月の心と言うよりも、天地日月心で天地日月心とは天地金乃神様のお心其のままだと言う事です。言うなら神の心を心とすると言う事なんです。
 信心とは神の心を心とすると言う事はどう言う事かと言うと、真心になると言う事なんです。真心とはどのような場合であってもころころと、有り難い方へ有り難い方へと受ける心、そこに天地金乃神様と私共人間の心と心がぴったり、交流するものがある天地日月心である。天地日月の心じゃない天地日月心を私共は作っていく。合楽理念はこの天地日月心になることをもうあらゆる角度から説いてあります。だから私は今日天地のおとずれですかね申しましたんですけど。
 いろんな場合に直面するいろんな問題難儀という事を感じる時に、ここんところを合楽理念はどう説いておるかとまず問うてみなければいけない。日頃勉強しておるなら合楽理念一つも答えが出て来んです。その答えにならせて頂く精進こそが、私は今の合楽の信心の第一お互いが、心しなければならない事だと思うです。ところがなかなか咄嗟の場合こういう場合に、合楽理念はどう説いておるかと言う事が咄嗟に出て来ない。
 そこで今日三橋先生と話さして頂いて、これから私がここでお取次ぎをさして頂いて、いろいろなお礼やらお願いやらお届けやらが、そういう時に私がそれに対して答えておる答えをね、これから伝えて於いといてください。こう言う問題の時にゃこう合楽理念は説くんだと答えとくなら。と言う様なものを作らねければいけないではないだろうかね。昨日或人がそのう好きな人が出来た。ところがそのう自分の傍にいつも置いておくわけにはまいりません。
 だからもう不安で心配でたまらん。それで異性の人と話したりしよるともういらいらもやもやする。いわゆるりんぎがおこるなんです。それもう深刻になるともう本当にきつい思いである。こりゃもう体験者がわかる。本当ですよねえ本当に胸の痛みに耐えかねる様にある。そしたら神様から頂く事がね、バラスがいっぱい敷き詰めてある。いや小さい小石がいっぱい敷き詰めてある。その一部分がこう地肌が出ておるところを頂いた。いわゆるあの小石と言うのは、恋しいにつながる事でしょうね。
 その心の中はもう恋しい恋しいの思いで一杯なのである。それがねどこにか地肌が出ておる。それがまっとそれがねなら二人で仲ようお話でもさして頂く時には、満足しとるけれども、もう離れておると不安であり心配である。不安である心配である、そこがいわばその小石が欠けておるとこだ。その欠けておるところを信心で埋めなければいけないと言うことです。だからそういう時に合楽理念は何と説くか。そしたらその答えに対してですね、わが肉を持ってここに当てよと言う事を頂きました。
 こりゃやっぱみんなにあたる事ですから。ここの欠けてる所はねわが肉を持ってそこに、例えばあの吸出しなんかしますときに、何と言うですかねどっかの肉を持ってきてからそこにあてあるでしょ。そうする事によってそこが充実した心になると、心が平静になる穏やかになると言う事なんです。そういう御理解を説かせて頂きながら、あのね小石がいっぱい敷き詰めてある、ここの地肌が出てるからあんたが苦しいんですよと。
 例えば白のものが赤に見えたり赤のものが、もうどうかそのう彼女が他の男ども作っとらんじゃろうかと言う様に苦しんどる分けです。そして見てるともう本当に疑わしきそんばっかり見えて来るんです。人間の邪な心というものはそういうものに、有り難い事でも有り難い事にゃ見えない事になってくるんです。そこでなら私共は人間ですから凡夫ですからどういう事でもありますけれども。そういう所を神様にお縋りをさして頂いて、不思議神様が忍べというて下さるというて下さると忍べるから不思議なんです。
 神様からここの小石で一杯あなたの心が敷き詰められとるけれども、そこにちょっと欠けておるところが地肌が出ておるところが、あんたの今の悩みだと身に沁みますと、聞いただけでもすっとする様なものが感じられるんです。ここを防いだらこの苦しみはなくなるんだと思うのでしょうか。もうそれこそ合楽理念はどう言う難儀とういう悩みの場合であっても、その時その事に応じてね、心がいつも平生になる言うなら心がいつも真心に向かわなけれがならない事を、指し示してくれるのが合楽理念なんです。
 ですから本当に私共が真心一つで助かると仰るが、本当になら真心とはと言う追及をしたことがあるだろうか、真心とはどんな場合であっても有り難い有り難いと受けられる時。今朝の御理解で言うと、人が泥棒というても乞食じゃというても、それに腹を立てるどころかお礼の言えれる様な心こそが真心なんだと。その向こうにはかならず大変がまって居る、その大変が有り難うなってくる楽しゅうなって来る。
 だから悪口を言われれば心がへらへら笑おうごとなってから、愉快になってくる、合楽理念は嬉しゅう楽しゅう、しかも愉快に頂いて行けれると言うのが合楽理念。そこでねならその焦点です。いうなら真心とはと言うものをいつも追及する心、これを惜しんではならない。そして様々な私様々な場合に直面した時にです、はぁこういう時に合楽理念はどう説くのだろう。今まで習うて来た事だけで分からんなら、もう一辺御結界にお取次ぎを頂いてお願いをさして頂くと、心が平生の心になる。
 平生ないうなら丁寧な心、例えばそれは濁った水であっても、平生であれば手を持って行けば手の影が映るように、どんなに清らかな水であっても波が立っておっては、その影が崩れてしまう様に、合楽理念はいつどの様な事柄であっても、有り難いとか勿体無いとか、言うならどんない心が乱れる様な事であっても。平生心というものを作って下さる手立てと言うかね、そういう道付けをして頂くのが合楽理念であります。
 だからはぁ苦しいとか悩むとかいうものを自分の心の中に頂かずに、それを神様に向けるいいえもういつも心は向けておりますだけでは、なら私が勝ってに下がっても理屈は同んなじだけれども。どうんなにくたくたにくたぶれておっても、ここに座ると今日近見市長にお話したように、違った心が生き生きとして弾んでくる。それが新な心である。それが言うならばくたくたの身体でも、又御用にお使い回して頂けれるおかげが受けられるのである。だから今日はそこ辺のところがね。わかって大ると言う事。
 知っておると言う事だけではない。やはりやはり心が整わなければならない。お広前に出て来なければならない。そういう信心を怠って良い結果が生まれるとは、いくらどんなにこうしゃに分かっておっても、出来る筈はないと言う事。信心と言うものはそういうですね。今日は私御神前で今晩のお部屋のとこへ連れて頂く事は、私共は一生ということですね。それを何とかと言う言葉でしたけどね。
 とにかくあのう一生かかって取り組むことが信心なんです。このおかげ頂いたらというのじゃないです。もう一生掛で取り組ませて頂くのですから、その信心がいつぅも生活の中心にあらなければならない。だから忙しかというて片手間になってしまうという事じゃないです。忙しければ忙しい程信心が芯になってこなければならんのが信心。それは一生掛でそうした尊いものを身に付けていこうという稽古なのですから。
 もう分かっておるだけではいかん。私が御結界を離れた時と、御結界に座った時と言うのは、なら下がっておっても神様のお知らせも期待も頂いておるから、いうなら神様といつも交流しておるというても良いようだけれども、不思議な事にここへ出て来た時と出ない時とは違うと言う事です。なら皆さんが分かっておる事であっても、お広前に出てお話を頂いて朝のご祈念でも本気で出来ておる時と、いや分かっておるけれども,こうせぇぶに成っておる時とは、もう必ず違うです。
 それで問題になってくるといよいよそれが分かってっくるです。信心をそういうですその最近言われる、片手間の信心ではなくて本当に自分の全身前例をかけて信心の稽古をさせて頂くもんだ、そして例えば今日は真心なら真心というものを追及していくということ。真心とはどういう事かと言う事を、ただ真心で助かると言うだけじゃなくて、追及して頂かにゃいかん。
 そしてそれに例えば被害になっておる、はぁ自分には真心がないと分かったら、そんならその真心にはどうしたならば真心になれるか、有り難くなれるかという、次の話の手掛かりを求めておかなければならない。そこに神様はそれこそ風のそよぎがなさんでも、翻然としてこれだぞぅと示して下さる不思議な働きがこれにたっちされる。そこに心が生き生きとして来にゃいけん。5月の月もどうぞ一つそういう生き生きとした信心を目指さして貰い、そしてそれを追及さして頂く心を惜しんではならんと思うのでございます。
   どうぞ。